立川マンドリンクラブ会報 第722020.07.19発行
マ立川に入部10年になりました
Guiter 星 嘉裕
 思い出に残る演奏を書いてほしいとの依頼を頂き、二つ返事でお引き受けしたのですが、根が音楽的でない私、書きたい事の初っ端は、音楽ではない事になりました。申し訳ありませんが震災の事から書きます。編集委員の皆様、指揮者、選曲委員の方々すいません。
 私が入会した翌2011年はあの東日本大震災が起こった年でした。3月に起こったあの大地震のあと、翌年の5月に私は、妻と息子を連れて、出身地の岩手釜石市と妻の元職場があった同市鵜住居の被災地を訪問しました。
 釜石は、小4年まで居住、親戚も隣町に住んでいた思い出がある場所でした。震災が来るまでは・・・。美しい根浜海岸、当時よく目にした漁火は、プラチナのように海面を輝かせ、その海と地平線を見ながら妻ととめどない会話をした記憶があります。しかし震災後その砂浜は地殻変動で陥没、海岸線は逆に隆起し、松林が倒れ根元が露出、切り出した材木の束になっていました。あの松林がと思い、目を背けたのを覚えています。JRの駅舎や線路は津波に浚われ存在そのものがなく、ガラス窓のない校舎、廃材の山の校庭、津波が到達した山の中腹に海水のラインを確認したときは、本当にまっすぐな線に恐ろしい水の威圧を感じたのを思い出します。
 クラブの思い出に戻ります。創設30年の記念演奏会はこの震災の年でした。ラストは大序曲1812。ギターアンサンブルの経験者だった私は、曲自体の理解はおろか技術的にも全く歯が立たなくて、演奏終了後、虚しさを感じたのをいまだに覚えています。ですが鈴木誠一さん作曲の細川ガラシャは、いまだ、ギターを弾いて楽しい曲でした。ギターを熟知している作曲家の伴奏感を感じさせない構成力が記憶に残っています。
 その年、練習中に被災地を支援したいと部員の皆さんに衣類の購入を呼びかけて下さった方が現れた事も鮮明に覚えています。被災地出身の田舎人として飛び出してその場で御礼を言うべきでした。嬉しかった。恥ずかしさが先に立ち言えませんでしたが・・・この場で御礼申し上げます。このクラブは演奏を超えて、思いやり、人の温かみ、優しさがあるクラブと感じました。バランスのある人たちがたくさんいらっしゃると思いました。できるだけ長く続けたいと考えた1年目でもありました。
 昨年ラグビーのワールドカップの試合が、この釜石で開かれました。10年の記憶に残ること、やはり音楽的でない事の方が多く思い出されて来ます。(すいません)でも立川MCでギターを弾いてきてよかったと改めて思っています。
 まとまりのない文面になりました。他に書きたい事もあるのですが、ここで筆を置きます。