立川マンドリンクラブ会報 第65号2018.06.02発行
「スラヴ行進曲 作品31 変ロ短調」P.I.チャイコフスキー作曲 解説
             Conductor 初山 高志
 後年、「ヨーロッパの火薬庫」と称されるバルカン半島は、古代からアジア、ヨーロッパ、ロシアへの交通の要衝で、各地から多くの民族が集まっていました。「フィンランディア」の曲紹介でも書きましたように、19世紀にはいりますと、ヨーロッパ各地で民族主義運動が盛んになります。この民族主義運動は、バルカン半島にも飛び火します。1875年、バルカン半島でトルコ人のオスマン帝国の支配下あったボスニアやヘルツェゴビナで民衆の蜂起が起こります。セルビア王国は、これらの蜂起を支援し、更に、1876年、セルビア王国は、モンテネグロ公国と共にオスマン帝国に宣戦布告します。しかしながら、大きな戦力差は、いかんともしがたく、セルビア王国は、大打撃を被ります。
 セルビア人は、ロシア人と同じ「スラヴ人」。この事件の犠牲者への追悼演奏会用の作品として「スラヴ民族的主題によるセルビア・ロシア行進曲」が作られ、更に、この曲を改定してできたのが「スラヴ行進曲」です。愛国心に駆られたチャイコフスキーは、たった5日でこの曲を書き上げたとか。
 この曲では、3つのセルビア民謡が引用されています。冒頭の変ロ短調の悲しげで陰鬱な葬送行進曲のような部分は、セルビア民謡「なぜ太陽は明るく輝かないの」。中間部の快活で郷愁を誘う部分は、セルビア民謡「懐かしいセルビアの戸口」。そして勇壮なセルビア民謡は、「セルビア人は敵の銃を恐れない」。これらの民謡の他に大序曲「1812年」でもおなじみのロシア帝国国歌が引用されています。
 趣きが異なる複数の民謡と自国の国家とをモチーフにして愛国心、義侠心、同胞愛を煽りに煽ったあざとい作品です。この曲の初演は、大成功。聴衆は感動のあまり涙を流したとか。この点で言えば、チャイコフスキーは、芸術家でありながら、やっぱり職人なんだと思います。作曲の依頼の趣旨にしっかり応えています。オスマン帝国に虐げられている(とロシア人が勝手に思い込んだ)同じスラヴ人を救済するという風潮が形成されたようです。

 そのおかげかどうか、ロシア帝国は、オスマン帝国と、セルビア王国等との戦争に軍事介入し、更に、これは、ロシア帝国とオスマン帝国との「露土戦争」に発展します。ロシア帝国は、この戦争に勝利し、セルビア王国、モンテネグロ公国、ブルガリア公国、ルーマニア公国の各国は、オスマン帝国から独立します。
 同じ民族を救済するために立ち上がる・・・なんて美しい・・・と思ったあなた。そんなの信じちゃダメですよ。「戦争は経済」、自国の利がないのに軍事介入なんかするわけないじゃないですか。
 この戦争の舞台は、ヨーロッパ南部のバルカン半島。バルカン半島は、日本のおよそ2倍の面積を持つ大半島。半島ですから、当然、3方は海に面しており、地中海東部に突き出ています。察しのよい方は、これでわかったと思います。要するにこれは、ロシア帝国の南下政策の一環。昔から、ロシアは、冬でも凍らない港、不凍港を欲していました。バルカン半島に軍事介入し、この地に、親ロ国を独立させることで地中海への出口を求めたわけです。同じ民族の救済を前面に押し出せば、国民の受けもよいし、バルカン半島の各国へのよい口実にもなるというわけです。
 そもそも、「スラヴ人」というのがくせもの。スラヴ語系言語を話す民族の総称ではあるものの、同じヨーロッパの人種であるゲルマン人に比べると、人種的な発祥等は今ひとつ不明。異民族であっても同じスラヴ人という考えには無理があるのでしょう。20世紀末には、南スラヴ人の国との名を持つユーゴスラビアで南スラヴ人どうしによる激しい民族紛争がありました。それを思うと、この曲がすごく皮肉に聞こえるのが不思議です。