立川マンドリンクラブ会報 第49号2014.06.21発行
「ピースボート南回り地球一周の船旅」2013.11.22~2014.3.7イースター島観光そして骨折の顛末
Mandola 大井 和子
 2 月 7 日イースター島に上陸した。島には漁港しかない為、大型船は沖に錨泊し、たくさんの漁船が 6~8 人乗りテンダーボートとなり漁師が操縦士となって、船と島を往復するのだった。その為悪天候の時は上陸できないのである。
 数あるツアーの中、イースター島 2 回目 の我々夫婦は「ボランティア体験」を選び、チリ森林公社の施設に於いて植林活動をした。モアイ造り・モアイ倒し戦争、そして近現代の厳しい歴史の中で、イースター島は樹木も草もない裸同然の島になってしまった。参加者 32 名で木材となる“マコイ”の「ポットへの土入れ・種播き・苗の植え替え・並べ替え」等の作業をした。人海作戦で多くの仕事が出来、公社の方には喜ばれ、我々も大きな充足感を味わった。
 イースター島の固有種であり絶滅種、幻の“トロミロ”の再生にも力が入れられていた。何人かの研究者が持ち帰った種で各国で育てていたものを、イースター島に移植する試みである。なかなか成功しなかったそうだが現在 3 本の若木がこの施設でも育っていた。今年初めて黄色の花を咲か せたそうである。

 トピックス!!!!!!!! マタヴェリ空港は 1985 年アメリカNASAがスペースシャトルの緊急着陸用基地として 1500 万ドルの費用をかけて 3300 メートルの滑走路に拡張された。

   植林体験後はオロンゴ岬観光、ハンガロア村のレストランで昼食、タハイ儀式村のモアイ観賞だった。オロンゴ岬では鳥人儀式村の遺跡について現地ガイドの説明を受けた。説明中に雨が降ってきた。
 オロンゴ岬を周遊するに当たってみんな雨具を取りにバスへ戻った。夫は「雨の中歩きたくない!」と一人バスに残った。雨は程なく上がったが僅かに傾斜のある岬の地面はつるっ・つるっと滑った。普段なら頼りにする夫の腕が隣りに無く、つるっと滑って転んでしまった。左足首がひざを折る形にたたまれた。近くの人に助けられてやっと立ち上がった。骨折か捻挫か大きなけがをしてしまったことを直感した。しかしその後もスタッフ持ち合わせの冷えピタを貼って、夫や仲間の肩を借りて観光を続けた。すぐ船に戻る選択もあったが、目前の昼食と島唯一の「目の入ったモアイ像」の観賞が楽しみだったのだ。腫れて痛む足を引きずりながらも観光を続け、仲間より少し早く船に戻った。タラップ上に看護師と車椅子が待っており、診療室に直行した。船医は整形の専門だった。骨折の可能性が高いという事で慌しく島の各部署と連絡を取って、島の診療所に行くことになった(入院設備もある島唯一の医療施設)。船医の付き添いのもとテンダーボートに再び乗り、タクシーで約 10 分、現地の方々と共に夕方の診療開始を待った。私たちは帰船リミットを気にしていたが、先方は慌てず騒がずのんびりしたものだった。レントゲンの結果「骨折」が明かとなり、ギブスを装着した。レントゲン写真を受け取る時間が無く、船医が状態を確認して、帰路に着いた。テンダーボート⇒オーシャンドリーム号(ピースボート)と戻り、タラップを上がる段で「左足を着かないで!」と言われた。石膏のギブスは重く急勾配、けんけんは無理・・・と躊躇・・・する間もなく前後から担がれてしまった。そして一週間の安静が言い渡され、食事はマイキャビンに運ばれることになった。痛み止めの薬は固辞したので 2 日ほど苦しんだ。車椅子は昔取った杵柄、お手の物だったので、残り一か月の旅行もそれなりに充実して過ごした。自主企画の「茶道」「多摩っこ集まれ」も医者の目を盗んで予定通り続けた。怪我によって沢山の船友の優しさに触れ、イースター島もいい思い出がいっぱいの寄港地となった。

 1978 年修復作業中にバラバラになった「眼」が発見された。モアイには眼が無いと思われていたが、立てられる最終段階で嵌められていた ことが分かった。眼にはマナ《霊力》があるとされ、フリ・モアイ(モアイ倒し戦争)では粉々に徹底的に壊されていたのだった。
 発見されたモアイの眼の材質は、瞳・赤色凝灰岩、白目・白珊瑚礁、大きさは、天地19㎝、幅36㎝、厚さ6㎝。