立川マンドリンクラブ会報 第37号2011.7.24発行
懐かしきあの頃創立に努力した人  宮澤 榮作
 私が立川に住むようになったのは父の転勤によるもので、1942年戦時下で戦闘機が毎日離着陸していた陸軍飛行場の最も盛んな時期でした。1944年になると学徒動員で昼間は軍事施設で働き、夜間は夜学で勉強と厳しい毎日でした。
 それでも日本は必ず勝つと軍事教育を徹底的に叩き込まれた少年には、敗戦の日は悔しく悲しい日でした。脱力感、そして空白のような毎日が続く中でやっと見つけた楽しみ、ハーモニカ・縦笛・ウクレレ等、音楽らしきものに興味を持つようになった。ウクレレの弦を張換えてボール紙のピックでトレモロを弾いたのがマンドリンを買うきっかけになった。1948年当時南口に野﨑楽器なる店にてマンドリンを買い求める。月給2000円の頃、3800円で一寸高いとは思ったが、これが一生の趣味なるとは夢々思わなかった。最初は独習書に依る独学、その後柴埼町二丁目の林ギター音楽研究所に入門し、二年間のレッスンと共に林マンドリンアンサンブルに在籍し、ソロ、コンマス、指揮等5年間マンドリンを楽しむ。1953年より平山英三郎氏に師事し、厳しいレッスンを受けるようになる。
 昭和54年(1979)立川市より夏季マンドリン講習会の講師の依頼を受けて、9月19日より12月12日まで12週の講習会を無事終了する。最後まで残った生徒の中でマンドリンを続けたい方がおりました。松本さんと戸塚さん(2000没)、それに古田佳子さんの三名。私は急遽マンドラを買い、古田佳子さんのご主人の古田栄治氏、ギターは古田氏の友人で権田氏、何とか四重奏らしき編成になり、易しい曲の練習が始まった。昭和55年(1980)4月立川マンドリン友の会の発足である。5月に樋川氏が入会、7名で五月祭に出演。その後西山・石間・町野・大場さん達の入会で、翌年の五月祭には12名での出演となる。


昭和56年(1981)10/18立川市民会館大ホール第七回市民合唱祭特別参加(何人わかります?)

 昭和57年(1982)11月、立川マンドリン友の会第一回演奏会を高松公民館視聴覚室で開催する。出演者17名+初心者教室修了生6名、一番最初の曲は「水色のワルツ」でした。
 私にとってあの時程嬉しかったことはなかった。黒澤明監督による“生きる”なる映画に深く感銘を受ける(病で余命幾許もない体で小さな公園を完成させるまでの執念)。第一回演奏会を開くまでの努力、初代会長の松本さんと共に燃やしたあの時の情熱こそが、私の青春時代だったのだろうか。
 第四回演奏会より立川マンドリンクラブと名称を改める。第六回より豊田さんが入部、レナータ等手応えのある曲をプログラムに載せるようになった。その頃砧会の研究会で出会った伊藤氏が立川MCでギターを弾きたいとの事で即入部。彼は松屋MCで部長・編曲・指揮等を歴任しており、将来を託せると期待していた。が当時長野県蓼科に出張しており、本格的に活躍するのは数年後になる。種を撒き苗になるまで育てたが、その後は伊藤氏の努力に依り大輪の花を咲かせてくれた、感謝しております。
 平成2年(1990)頃、立川女子高校卒業生の須貝京子さんが最初に立川MCに入部、それを期に鯉渕馨(塚田Tremolo36参照)さん、長谷川紀子(斉藤)さんが入部。そして文化祭にベレー帽を被って見学に来ていた神田美幸さんを誘って入部。若い力の加入で大きく発展した。マンドリン講座の講師推薦の源は立川女子高校マンドリン部顧問 小澤節子女史からだと伺っている。あれから30年余。ご苦労も多々あったと思いますが、現在では大編成のオーケストラに成長してここに第30回演奏会を迎えるに際して心よりお祝い申し上げます。

 私の役目はマンドリン人口を増やし底辺を拡げる事にあったようだ。マンドリンを持つのが始めてと言う人が多かったが成長した姿を見ると嬉しいものです。このような役割を長年して来た事に少し許し誇に思っている。立川の街を歩いていると立川MCのメンバーを時々見かけます。昨年の旅行では大井和子さんなる方とご一緒のようでした。海外旅行では町野氏にはとても敵いませんが、私も旅行が大好きでこれからも続けたい。
“楽しくなければ音楽では無い”
を信条に、マンドリン三昧の人生を楽しもう。

 我がトレモロ人生に悔なし!!