立川マンドリンクラブ会報 第25号2008.7.5発行
組曲『水上の音楽』を考える伊藤 博
平成9年の第16回定演から始めた『音楽地球紀行』に続く『宇宙紀行』で、《立川かぐや号》から地球を見たら、忽ち次は『水の惑星のマンドリン音楽紀行』だなんて凄い発想ですね。そして続けて『水上の音楽について原稿を書け』って言う鹿野代表って凄い人ですね。

ヘンデルって名前は知っていても 《水上の音楽》も聴いてはいても、私はそれ以上詳しくは知らないのです。そこで、この機会に慌てて手許にある文献を調べて驚きました。
ヘンデルが生まれたのは今から323年前の西暦1685年2月23日ですが、その二十数日後の3月21日に 《ヨハン・セバスチャン・バッハ》が生まれたのです。世界の大作曲家を僅か1ヶ月違いで誕生させたドイツって凄い国ですね。しかし、二人の経歴や作風は著しい対称を示します。バッハが一生ドイツ国内で教会を中心に慎ましい小市民生活を送り、精緻な対位法による内省的な音楽を書いたのに対して、ヘンデルは若くしてイタリアからイギリスに渡り国際的な巨匠として活躍し、簡明な技法で一般市民層へ訴える音楽を得意にしました。 バッハの『内向的』に対して、ヘンデルは『外向的』な音楽家・作曲家だったのです。

《ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル》は中部ドイツの外科医の子に生まれ、小さい頃から音楽に凄い才能を示したようです。9歳から本格的に作曲の基礎・オルガン・チェンバロ等の鍵盤楽器を習い、18歳でハンブルグのオペラ劇場に入り音楽家になる決意を固めます。
20歳でオペラの作曲を始め、21歳でローマ行き、コレルリ、スカルラッティの影響下でカンタータを作曲し、フィレンツェやベネツァアでオペラ作曲家として成功します。
25歳でハノーバー宮廷の学長に迎えられ、程なく休暇を得てロンドンに渡ります。27歳(1712年)以降はこのロンドンを中心に 《イタリアオペラの作曲家》として大活躍をします。
ロンドン時代の30歳(1715年)に 組曲『水上の音楽』の第一回の作曲が行われたようです。水上の音楽の組曲は3つあるようで、1715年・1717年(32歳)・1736年(51歳)の3回に亘って作曲されたようです。旧ヘンデル全集(クリュサンダー版)には20曲、新ヘンデル全集には21曲の水上の音楽がありますが、6曲を選んで近代風に編曲したハーディ版も好んで用いられているようです。また、全27集・3組曲に分かれているという説明もありますが、各組曲の曲数については説明がありません。
先程から《ようです》という言葉を連発していますが、この曲の正確な作曲年代や企画の配列については、いろいろな説・異論があるようです。そこで取りあえず、30歳・32歳・51歳の3回に亘って作曲した説に基づいて、私なりの推論を述べてみますのでご容赦ください。
この曲は、英国王がテームズ河で舟遊びをされた時にヘンデルが作曲し、遠くから演奏して国王の心をつかんだ曲のようですが、その時の国王は誰だったのか歴史的に調べてみましょう。
ヘンデルが1712年に25歳でロンドンに渡った時、当時の英国のアン女王に寵愛された記録があります。ヘンデルが英国宮廷で活躍した最初の記録ですが、そのアン女王は2年後に急死して王位を継いだのが既に54歳のジョージ1世でした。ですから第1回・第2回の水上の音楽はジョージ1世のために演奏されました。
アン女王に寵愛されたヘンデルがジョージ1世に疎まれ、第1回の舟遊びにこの曲を突然演奏してジョージ1世の心をつかんだのか、また、第1回の舟遊び後、ヘンデルが何か失敗してジョージ1世のご機嫌を損ねてしまったので第2回の舟遊びに無断で演奏して失地を回復したのか、第3回目は??いろいろ楽しい想像が出来るのです。