立川マンドリンクラブ会報 第16号2006.4.23発行
ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924、イタリア)
1858年{桜田門外の変:1860年}代々ルッカの大聖堂オルガニストというプッチーニ家に生まれる。ジャコモは一家の5代目で、14歳にして教会のオルガニストとなった。ミラノ音楽院に入り、オペラ作曲家を決意する。「交響的綺想曲」を25歳で発表し、音楽院を卒業。それをきっかけに彼は注目をあびることになる。
その後、マスネ「マノン」の成功の影響から、同じ題材をオペラにした『マノン・レスコー』(1893)、『ラ・ボエーム』(1896),『トスカ』(1900)と次々に傑作をつくっていった。
その次に作曲をした『蝶々夫人』のスカラ座での初演は大失敗に終わったが、一日で上演を打ち切り、その3ヵ月後、多くの部分を書き換えたものを再演し、大好評を得た。
アメリカを題材にした『西部の娘』を作曲し、1910年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にて成功をおさめる。その他、新しい試みとして『外套』、『ジャニ・スキッキ』、『修道女アンジェリーカ』を三部作として同時に初演した。
最後の作品となった中国を舞台にした『トゥーランドット』は「リューの死」までを作曲していたが、 喉頭癌で65歳の生涯を閉じた。{関東大震災:1923年の翌年}

歌劇「ジャンニ・スキッキ」
あらすじ
と き:13世紀
ところ:イタリア・フィレンツェの金持ち老人ブオーソの寝室
ブオーソはたった今、息を引き取ったばかり。親族はとりあえず悲しんでいるが、気になるのが残された遺産。全財産を修道院に寄付するという遺言状があるとの噂もあり気が気でない。
一同が部屋を探し始めたところリヌッチオが遺言状を発見した。ところでリヌッチオとラウレッタは恋人であるが、親族が結婚を許してくれない。そこで遺言状を皆に渡すかわりに遺産が入れば結婚を認めてほしいと頼むが、一同は持参金無しの娘はダメだと相手にされず遺言状は取り上げられてしまった。いよいよ親族達が遺言状の封を開けようとしている時、リヌッチオはこっそりと少年を使って恋人のラウレッタとその父親ジャンニ・スキッキを呼びに行かせた。
さて、遺言状の内容は噂されていた通り全額を修道院に寄付するというものであった。そこでリヌッチオは何かよいアイデアを知恵者のジャンニ・スキッキに頼もうということになった。
そこへ先ほど少年を使って呼びに行っていたジャンニ・スキッキとラウレッタがやってきた。 リヌッチオはジャンニ・スキッキに窮地を救って欲しいと頼むが、「持参金無しの娘とは結婚させない」と親族一同に言われたことに腹を立てているジャンニ・スキッキはいったんは拒否した。しかし娘のラウレッタにまでも頼まれてしまったら断りきれない。
♪「私のお父さん]♪
ねえ、お父さん あの方が好きなの、すばらしい、すばらしい方よ
ポルタ・ロッサへ行きたいの 愛の指輪を買いに
本当よ、本当よ、あそこへ行きたいの
もしもあの方を愛することが無駄なことならば
ポンテ・ヴェッキオに行くでしょうよ
アルノ川に身を投げに
恋が私の胸を燃やし苦しめるの
どうぞ神様、死なせて下さい
お父さん、どうぞお願い、後生だから
そこでジャンニ・スキッキは自分がブオーソになりかわって新たな遺言状を作ることを提案したいたところ、タイミングよく医者がやってきたために早速、ジャンニ・スキッキはベッドにもぐりこんだ。医者を「もうよくなったから」と追い返した後、ジャンニ・スキッキは一同に向かって「これで皆共犯者となり、ばれたら手を切られてフィレンツェから追放される」とを歌う。
♪[さらば、フィレンツェ]♪
さらば、フィレンツェ
さらば、清らかな空
傷ついた腕で別れの挨拶
あのギベルリーノのように宿もなくさすらい歩
やがて公証人がやってきて大芝居が始まった。ブオーソ演じるジャンニ・スキッキは古い遺言状を破棄して公証人に次々と遺産分けの指示を出す。最後に最も価値のある屋敷とロバをジャンニ・スキッキに贈ると言うので一同は大騒ぎ。しかしジャンニ・スキッキは先ほどの「さらば、フィレンツェ」を歌って脅し、「ここは私の家だ。皆、出て行け」と追い出してしまう。
遺産を手にしたリヌッチオとラウレッタは大喜び、ジャンニ・スキッキも娘達の喜ぶ姿を見て御満悦で幕。 !!