立川マンドリンクラブ会報 第13号2005.7.2発行
歌劇「イーゴリ公」より『ダッタン人の踊り』について
A.ボロディン(編曲:M.ハインズレー)
ボロディン(1833-87)は、ロシア五人組の中でムソルグスキーとともに最もロシア的色彩の濃い作品を書いた作曲家です。代表作に交響詩「中央アジアの草原で」があります。
彼は、音楽の方はいわば副業で、本職はペテルスブルグの医療専門学校の有機化学の名教授となった科学者でした。
ずばぬけた音楽的な才能を持ちながらも、その作品の数が少なく自ら「日曜日の作曲家」と称していました。休暇の時か、さもなければ病気の時にしか五線譜に向かうことができなかったからです。


歌劇「イーゴリ公」
そもそもこの曲は、歌劇「イーゴリ公」の第二幕で演奏される曲なのですが、全四幕の中でも最も盛り上がるのがこのだったん人の踊りが演奏される第二幕だと言われています。このイーゴリ公とは12世紀のロシア建国時代が舞台の、日本で言う大河ドラマです。かいつまんでストーリーの全容を説明すると、
第一幕:ロシアが韃靼(だったん)人((=ポロヴェツ人)から攻撃を受け、イーゴリ公が戦地に出陣します。そして、イーゴリ公が留守の間に国は荒廃していきます。
第二幕:イーゴリ公はポロヴェツ陣営に捕らえられてしまうのですが、ポロヴェツ側の将軍コンチャークは囚われの身となってもなお堂々としたイーゴリ公をたいそう気に入り、捕虜としてではなく、客人としてイーゴリ公をもてなします。
第三幕:イーゴリ公は脱走に成功するが、彼の息子はコンチャークの娘と恋に落ちてしまい敵陣営に残ることを決意します。更にコンチャークも彼を婿として迎え入れます。
第四幕:イーゴリ公の帰還を皆が喜びます。

とまぁ、こんな感じです。どちらかというと、敵側の恰幅のよさばかりが目に付くストーリですね。

ここの第二幕の宴の席で、だったん人の娘・だったん軍の男・少年・ロシア軍の捕虜などが踊りあかすシーンでこの曲は使われています。そのため、曲自体も五部構成になっていて、各部において女性が踊る様をいていたり、捕虜男性の荒々しさを描いていたりとバラエティーに富む内容です。
また、シームレスに繋がっているために誤解しやすいのですが、クラリネットの跳ねるような元気なリズムで始まるのが「だったん人の娘の踊り(Dance of the Polovtsian maidens)」で、フルートによるゆったりした旋律で始まるのが「だったん人の踊り(Polovtsian Dances)」であって、二つは別物です。コマーシャルなどで使われているのはだったん人の踊りの第1部の部分です。どうせ一緒に演奏するんだから、二つまとめちゃえばいいのに。

韃靼人とポロヴェツ(Половец)人
日本では「韃靼人(だったん人)」の名で定着しましたが、上述の物語の通り、劇中に登場するのは、ポロヴェツ人というトルコ系の民族です。ポロヴェツ人が「だったん人」に変換された経緯については、ポロヴェツ人の後から南ロシヤにモンゴル軍が侵入してきて、いわゆる「タタールのくびき」の時代が始まります。
ロシヤでは東洋系の異教徒、異民族をタタールと総称しているので、狭義では、モンゴル系のタタール人を指す中国語の韃靼人という言葉が、「ポロヴェツ人の踊り」を日本に紹介する際に流用されたのではないでしょうか。
編集後記今回は「韃靼人の踊り」の原題が「ポロヴェツ人の踊り」となっているのを見て不思議に思い、インターネットでいろいろ調べてみました。
その情報の一部を無責任編集してのせました。町野俊明